高山樗牛と龍華寺(たかやまちょぎゅうとりゅうげじ)
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●樗牛の遺言
先づこの度は墓地のこと申上候。
駿河国清水港附近龍華寺と申すは、
三保の松原より富士山への眺望本邦無二と存じ候。
私も数回遊覧し、当に慕い居り候土地に有之候。
もし少生死後に相成り候へば、
右龍華寺に埋葬相願い度く候。
素より故郷には先祖の墳域も有之候こと乍ら、
彼の陰鬱な禅宗寺は私の気には如何にしてもかなわず、
是非是非右願いの通りに成し被下度候。
龍華寺の宗旨は日蓮宗には候へ共、
宗門の異同などはかまいなく御許し被下べく候。
日蓮上人は私の平素崇拝する一大偉人にて、
某門末の寺に埋められるは何かの因縁と覚へ申候。
右墓地は私健康回復次第、私の地に罷り越し
予め談合買求め置き度く考へ居り候。
此の旨御含み被下度く候、兎角の御異在も之あるやも
測り知れず候へ共、このことは私の頑固なる願いに候間、
新士町とも御相談の上是非是非御許し被下べく候。
以下略
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樗牛館
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●樗牛の略歴
本名「林次郎」。明治四年(1871年)山形県鶴岡に生まれる。
仙台二高を経て、明治二十九年帝国大学哲学科を卒業。
仙台二高教授、帝大講師、雑誌「太陽」の主筆等を歴任。
帝大在学中歴史小説「滝口入道」を筆して名を顕し、
明治三十一年の頃文名愈々高く、独、仏、伊三国へ留学を命ぜらる。
然るに間もなく肺患に侵され残念乍ら留学を中止せざるを得なかった。
彼は断腸の思いであった。
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樗牛直筆原稿
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日蓮上人と高山樗牛
●煩悶時代
樗牛は肺患の為に留学を断念せるも、
病人には病人の仕事が待っていた。
しかもこれこそ彼が出世の本懐たる
「宇宙真理の探究、人生神秘の開顕」と云う大事業であった。
彼はこの目的を遂げんが為に、或る時は、
厭世論者となり、或る時は、道徳の理想化を研究し、
或る時は美術の鑑賞に身を潜め、又或る時は日本主義を高揚し、
又は美的生活を論じて個人の自由と尊厳を主張する等、
実に目まぐるしい程の思想的変転を極めたのであった。
故に世人は彼を「変化の人」又は「狂気」等と侮評する者さへあった。
然しこれ皆彼が目的達成の為の変化であり煩悶であって、
むしろ休みなき活動であった。
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●一大覚醒
然れども仏天は天才樗牛を見捨て給はず、
病気療養が返って彼に凡ゆる宗教書熟読の機会を与へた。
殊に日蓮上人の血涙を以て染めて流された大文章を心読するに及びて、
初めて目的地に達した事を確信し、彼は永遠に覚醒した。
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●樗牛曰く
予を信ぜよ、日蓮は予の知れる日本人中の最大偉人也、
予は和気清麿、楠正成、乃至豊臣秀吉を生ぜし、
日本を、さのみ大なりとは思はざれ共、
日蓮を生みし日本は実に生まれ甲斐のある国土なるを思う。
吾人の祖先の中に、日蓮が如き大人物を有するは、
吾人は我が国を世界万邦に誇称する所以也。
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日蓮上人像
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CopyRight(C)日蓮宗 観富山 龍華寺 |