当山は寛文十年(江戸時代初期)日近大僧都の開いた寺で宗派は日蓮宗であります。
東海の名刹と謳われる観富の眺望の素晴らしさから多くの人に親しまれ「滝口入道」の文豪高山樗牛もこの地に眠って居ります。
また、庭園の大蘇鉄は国の天然記念物に認定されて居ります。
「お万の方(養珠院)」
お万の方(1580〜1653年)は、徳川家康公の側室であり、紀州徳川家の頼宣公(卿)、水戸徳川家の頼房公の生母でありました。お万の方は法華の信仰きわめて篤い方で、「法華宗中興の三祖」と呼ばれる一如院日重上人(身延山第二十世)、常照院日乾上人(同第二十一世)、心性院日遠上人(同第二十二世)に深く帰依し、信仰の師と仰いでおられました。その縁により日乾上人の甥で日遠上人の弟子であった日近上人を猶子とされ援助を惜しみませんでした。
承応二年(1653年)、お万の方が亡くなられると、生前に寄進建立された身延の大野山本遠寺へ葬られました。日近上人はこの大野山において日々お万の方の菩提を弔うことになりました。
寛文六年(1664年)、紀伊大納言頼宣公の正室、瑤林院浄秀日芳大姉(加藤清正公の五女、八十姫)の葬儀の大導師を務め、その際に頼宣公より二百五十石の当地の寄進を受け、ここに隠居所を建てるべく庵をむすびました。
寛文十年、寺観も整い、大野別院と称して落成法要を営み、ここに当山がの礎が草創されました。寺紋はお万の方の生家水野家の「丸に沢瀉(おもだか)」を掲げることも許されました。
紀州徳川家二代目光貞公の正室、安之宮照子女王(伏見宮貞清親王の息女)は日近上人を敬うこと深く、この大野別院の開創にあたり、光貞公とともに時の東山天皇に奉上、勅許もあり「観富山」の勅額を賜り山号も定まりました。以来当山は皇室との御縁も浅からず、下賜の品々も伝わっております。この伝統もあって、近年も昭和天皇、高円宮殿下、浩宮徳仁殿下(現天皇陛下)の行啓を賜っております。
釈尊坐像
〔久遠実成本師釈迦牟尼仏〕
像高一四三〇 幅七二五
本堂正面御本尊 厨子あり
紀伊徳川家から開山 常寂院日近上人へ寄贈。
寛文十年(1670年)頃に寄贈されたと考えられる。玉眼で漆箔がしてあり、衲衣に蒔絵の彩色がされている。
養珠夫人位牌
〔養珠院妙紹日心尊尼〕
高六三〇 幅二三八
本堂歴代位牌堂 厨子あり
徳川家康側室・紀伊頼宣卿・水戸頼房卿生母。
小軸券経一部箱入
高一三五 幅一五八 日蓮宗宝第三三八八号
養珠夫人書写した法華経一部八巻。夫人が持ち歩いていた持経とされる。
お万の方書『細字法華経』全八巻 江戸時代
お万の方は、養父の蔭山氏の影響もあり、日蓮宗を厚く信仰しており、日蓮宗の僧・日遠に帰依していた。日遠が家康の怒りを買って安部川原で処刑されそうになった時、お万の方が家康に決死の助命嘆願をおこない、「師の日遠が死ぬときは自分も死ぬ」と言って死に衣を縫ったため、家康が驚き日遠を赦免したという。
お万の方は、承応二年(1653年)に亡くなり、墓所は日遠が建立した身延町大野の本遠寺にある。長男・徳川頼宣により建立された宝篋印塔が現存している(山梨県指定史跡)。
本教典は、お万の方ゆかりの龍華寺に伝わったもので、ミニチュア経巻に極小文字で法華経が書かれており、お万の方の日蓮宗に対する厚い信仰心がうかがえる。
「龍華寺と富士山」
有度山東麓から見た富士山の風景は、三保松原から見た富士山の風景とともに、構図としては日本を代表する風景の一つであり、三保松原が自然的資源ではなく文化的資源に与えられる世界文化遺産の構成資産になった理由もうなずけます。
江戸時代後期を代表する戯作者の滝沢馬琴(1767~1848年)は、『南総里見八犬伝』で有名ですが五十一歳のときの考証随筆『玄同放言』で、「第九地理」に龍華寺前庭からの望嶽図を載せています。馬琴は、「眺望は駿河国有度郡龍華寺の庭より観るを最一とすべし」とも記しています。
最近、東欧のグルジアの国立博物館で発見された高島北海(1850~1931年)が描いた富嶽図は、龍華寺から見て描いた富士山図であることが、日本の研究機関(国立文化財機構東京文化財研究所)の調査で分かってきました。
この「富嶽図」は、明治時代末の作品で、龍華寺と富士山の関係が当時からヨーロッパにも知られていたことが推測されます。
明治時代を代表する思想家であり文芸評論家でもあった高山樗牛(1871~1902年)は、二十九歳のころに病気の転地療養のために興津に滞在したことから清見寺や龍華寺なども訪れています。
三十一歳の若さで夭折した樗牛は、霊峰富士を望む観富山龍華寺に葬ってほしいという本人の遺言により龍華寺に遺骨が眠っています。後に高山樗牛碑も建立されました。胸像の作者は、大正から昭和にかけて活躍した彫刻家の朝倉文夫(1883~1964年)です。
玄同放言
滝澤馬琴著 縦二六七 横八〇
「文豪 高山樗牛(たかやまちょぎゅう)」
高山樗牛は明治四年一月十日に現在の山形県鶴岡市高畑町に於いて荘内藩士斎藤親信の次男として生まれました。翌年同藩士高山久平(斎藤親信の兄)の養子となり、幼名を高山林次郎といい、早くから天才的な文才を示し、仙台二高(現東北大学)在学中には評論を書きはじめ山形日報にゲーテの「若きウェルテルの悩み」の訳稿を掲載したりしました。ゲーテ作『淮亭郎の悲哀』を訳した頃からペンネームを「樗牛」とし名は古代中国の荘子の書からとったものであります。明治二十六年、現在の東京大学哲学科に入学し、同級の友人には、瀧廉太郎の作曲で知られる『荒城の月』の作詞者である土井晩翠(どいばんすい)や日本の歴史評論家の笹川臨風(ささがわしょうふう)、または東京帝国大学教授で東大に初めて宗教学講座を開設した姉崎正治(嘲風)等がいます。翌二十七年、東大在学中に読売新聞の懸賞小説に応募した「滝口入道」が首位入選、翌年新聞紙上に掲載されて若い読者から熱狂的な支持を受けました。また在学中には姉崎正治等と「帝国文学」の創刊に参画し創刊に貢献しました。
東大を卒業した明治三十年、仙台二高の教授となりますが、八ヶ月で校長排斥運動をきっかけに辞任。出版社博文館に入社し雑誌『太陽』の編集主幹となり、評論や時評を行います。当時の時勢は日清戦争後の三国干渉後で国粋主義的な気運が盛り上がっいる時期で樗牛の「日本主義」を鼓吹する評論、一方で『わがそでの記』のようなロマン主義的な美文は多くの若者達の愛読書となり、絶大な支持を受けました。
美学をめぐっては森鴎外と論争を行って鴎外の学者としての能力に疑問符をつけ尾崎紅葉、幸田露伴が見出した井原西鶴を否定することで、文学におけるリアリズムと対決をし、生涯の論敵となった坪内逍遥が編纂する『小説神髄』にも鋭鋒を向け、美と歴史、主我主義をめぐって折り合うことはありませんでした。明治三十三年、文部省より美学研究のため夏目漱石・芳賀矢一等と共に海外留学を命ぜられましたが洋行の送別会後に二十四際より発病する肺結核により喀血し入院、療養生活に入ります。留学辞退後は病中に書いた『文明批評家としての文学者』ではニーチェの思想を個人主義の立場から紹介し病の中、東大の講師となり、週一回、日本美術を講じました。また国柱会を創設した田中智学の著作『宗門之維新』を拝読後、日蓮聖人に惹かれ日蓮聖人の研究に没頭します。
明治三十五年、論文『奈良朝の美術』により文学博士号を授与されますが病状が悪化し、東大講師を辞任。十二月二十四日に神奈川県平塚市の海岸に在った杏雲堂平塚病院にて三十一歳の若さで逝去され、自身も住んだ事がある鎌倉の長谷寺で葬儀が行われ、戒名{法号}の「文亮院霊岱謙光日瞻居士」は田中智学がつけた法号であり、翌三十六年一月十九日、遺言により当山に葬らました。
墓碑銘に「吾人は須らく現代を超越せざるべからず」・・・目先のことにとらわれず、こころざしに向かって努力し、立派な人となって今の世の中以上のすばらしい社会をつくろうという意味が刻まれて居ります。これは日本が西洋と並ぶよう急速な近代化を推し進める明治期に於いて幼少期から天才の名をほしいままとした樗牛でありますが、その人生が超越を目指した「美」を探求したものあり、樗牛の評論は時に日本独自の伝統や文化の精神を基礎として国家の繁栄を目指す日本主義を唱えたり、また時にはドイツ哲学者ニーチェの思想を賛美したり、晩年は日蓮聖人に傾倒し、常に社会の情勢と自己と正面から向かい合い、評論を行いました。
樗牛の説いた日本主義の優勝劣敗論の影響は大きく、当時の小学校教科書にまで樗牛流の表現が多く見られ、樗牛の没後に斎藤信策、姉崎正治『樗牛全集』は三次にわたって刊行され樗牛が学び、教壇にたった仙台の地には「高山樗牛瞑想の松」の碑が土井晩翠、笹川臨風等により建立され、樗牛の生家や、晩年を過ごす鎌倉他、樗牛と縁がある地には記念碑が建立されて居ります。
樗牛が眠る当山にも、樗牛と姉崎正治との友情を田中智学が称えた「朋友相信」の碑、樗牛の著書「滝口入道」の主人公、「滝口時頼」と「曹司横笛」の霊を慰める為の「恋塚」と呼ばれる供養碑が樗牛博士六十年祭の砌に建立されて居ります。また遺族より、樗牛の原稿や写真、遺品も当山に預けられました。当山内の樗牛館にその一部が展示されて居りますのでご覧くださいませ。
拝観料
拝観時間
駐車場
大人400円 子供200円
(中学生以下※未就学児無料)
(団体割引:30名以上 350円)
煎茶お菓子付き 1,400円(文化財茅葺き本堂にて)
8時30分〜16時30分 年中無休
50台 無料
イラスト上の施設名の部分にカーソルを重ねますと写真や説明が見れます
山門
左右には「厄除門」と「開運門」があります。
厄除不動尊
不動明王は悪魔を降伏するために恐ろしい姿にされ、全ての障害を打ち砕き、おとなしく仏道に従わないものを無理矢理にでも導き救済するという役目を持っておられます。お姿は、目を怒らせ、右手に宝剣を持ち、左手に縄を持つ大変恐ろしい姿をしておられますが、そのお心は人々を救済しようとする厳しくもやさしい慈悲に満ちております。このお堂は昭和30年代団地建設をするにあたりこの地に移されました。
行啓門(ぎょうけいもん)
大正十一年、昭和天皇が皇太子としてご訪問された際に建築された門であります。
大蘇鉄(だいそてつ)
国指定天然記念物。根際から数本の太い枝に分かれ、更に枝が密に絡み合いながら四方に広がっている。ソテツは雌雄異株の植物で、龍華寺のソテツは雄株である。紀伊頼宣、水戸頼房二郷の寄進により、当山開山当時中国より移植せるものと伝えられている。
大サボテン
市指定の天然記念物。年代推定三百年。根元は既に木化しております。開山当時(江戸時代初期)我が国ではサボテンの栽培が盛んになり、多数の種類を輸入して居りましたが、寒さに弱く多くの種類は枯渇しました。現在は寒さに強いウチワサボテンの類が温暖の地である駿河に残っています。当山のサボテンは大きな刃の様子をしている事から大宝剣という呼称があります。
樗牛館(ちょぎゅうかん)
明治の文豪、高山樗牛の遺品、原稿や当山の宝物等を公開展示しております。不定期にて特別展示を公開しております。
客殿
平成15年に完成。寺のお客様をお迎えする館です。通夜、法事の後の精進落としの他、各会合の場として利用しています。
祖師堂(そしどう)
平成15年落慶。日蓮聖人をお奉しするお堂。220枚の蒔絵の天井画が収められている。毎年2月11日には当山の涅槃図を公開。
本堂(ほんどう) 観富園(かんぷえん)
市指定名勝。開山当初(江戸時代初期)に造園された庭園で「須弥山式」です。庭園の構想はこの地から駿河湾を隔てて富士山を望む天下の絶景を縮図したもので、築山は後の有度山脈を形どり地は駿河湾に本堂の屋根は富士山を摸して造ってあります。この構造の妙は各方面から賞賛されており、多くの文化人などが訪れています。本堂は江戸時代の書院造りで、屋根は茅葺です。
高山樗牛の墓
文豪樗牛の墓及び銅像が築山の上、七面堂のほとりにあります。明治一代の文豪高山樗牛博士もこの寺の風光を見逃さず、「観富の風光本邦無二天下第一観也」と賞賛し、遂に遺言に依ってこゝに墓を建てたのであります。博士は晩年日蓮聖人の教義研究に専念されたので、この寺が日蓮宗であり清見潟の風光が最も良い所から遺言したのであります。墓石は独逸式で、その表には「吾人は須らく現代を超越させざるべからず」の銘句が刻んであり、胸像は富士を眺めている姿で斯界の最高権威朝倉文夫先生の代表作の一つであります。
観富園 東山天皇 行幸橋
(かんぷえん ひがしやまてんのう ぎょうこうばし)
龍華寺(東山天皇書)
東山天皇(延宝3年~宝永6年)は日近上人を非常に祟敬遊ばされ、この寺を皇室の祈願寺と定め、「観富山 龍華寺」と御命名になりました。当時御下賜の勅額、御法衣、御鏡等今でも寺宝として残って居ります。
亀松
樹齢350年の亀に似ている古松です。
七面堂(しちめんどう)
江戸時代初期、当山開山当初から七面大明神を御祀りするお堂です。七面大明神は別の呼称を七面大天女と言い法華経守護、除病・病気平癒・安産の神様として古くから信仰されて居ります。
槙柏(シンパク)
樹齢800年の神木。パワースポット。
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山門を入ってすぐ左にあるのが「寺Cafe&Shop」です。こちらでは寺のお守りや経本、Ecoキャンドル、手刷り(江戸時代中期の版木を使用)の元禄おみくじなどがございます。境内を眺めながらコーヒーもどうぞ。拝観料もこちらで受け付けております。
各種お守り 300円〜
オリジナル御朱印帳 2,400円
月替わり限定御朱印 500円
元禄おみくじ 500円
煎茶(お菓子付)1,000円
ちょっと一服いかがですか?
文化財の茅葺き屋根の本堂にて
風鈴や鈴虫の音を聞きながらお茶をどうぞ
龍華寺の境内に咲きます見ごろの花をご紹介します。
ボタン
キキョウ
サボテン
アジサイ
サルスベリ
ヒガンバナ
ハス
スイレン
ツツジ
サツキ
カキツバタ
花の名前の部分にカーソルを重ねますと写真が見れます
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